唐木田の歴史
遺跡調査の結果、この地域に集落を作って定住を始めたのは縄文時代と推測され、古代、中世、近世の生活と文化の跡も遺されています。近代以降もここに暮らす人々は農業を生業としていましたが、丘陵地形が大きな障壁となっていました。
農業近代化の切り札としてのゴルフ場誘致が、その後、多摩ニュータウン開発へと発展することとなり、純朴な一農村に過ぎなかったこの一帯が、住宅だけでなく、教育や民間企業施設などが立地する複合市街地へと一変しました。
1980年頃(昭和55年)
この頃、鶴牧地区と別所地区の一部が造成中。 唐木田地区は昭和58年から5年間 にわたり、山を崩し谷を埋める大規模な造成工事が行われほぼ平坦となり、からきだの道の予定地も宅造地との境界の大半が擁壁と造成法面に変貌しました。
UR都市機構寄贈・公益財団法人多摩市文化振興財団所蔵
2012年頃(平成24年)
からきだの道の誕生以前
多摩丘陵の他の地区と同様、唐木田地区も人が狩猟や採集などを行い、定住を始めたのは縄文時代と言われています。 その後も生活の糧として森林を活用しながら暮らしてきました。その大切な森林の資源を持続的に得られるよう、下草刈り、伐採、植樹、萌芽更新、落葉かき(堆肥作り)など人手を加えて雑木林を守り続けてきました。
【雑木林】
昔、雑木林は農家にとって燃料(薪や炭の原木)や田畑に施す堆肥などの供給源として活用され、定期的(15~20年)な萌芽更新と日常の落葉かき下草刈りなどの林床整備を行い維持されてきました。
【炭焼き】
田畑の少ないこの地域は、養蚕とともに農家の副業として炭焼きが行われていました。薪や炭の原木としてクヌギ・コナラを主体とした雑木林の維持・更新に毎年の手入れは欠かせないものでした。
【養蚕】
大正末期から昭和にかけて養蚕が盛んに行われていた頃、谷戸の段丘面には多くの桑畑がありました。養蚕は多摩丘陵一帯の一大産業でしたが、戦後、ナイロンの出現で生糸の生産減少に伴い衰退しました。
唐木田地区の遺跡・旧地名